

5本指にいたるまで。 文:needlework編集部
私たちヤマツネの強みは、5本指靴下に関する品質にあると常々考えています。とはいえ、ここに辿り着くまでも大変でした。そもそも、中学時代からゴルフに夢中になり、プロになるために全てを注いでいました。着実に歩みを重ねてきたつもりでしたが、プロの壁は高く、最後は半ばその現実から逃げ挫折して実家に帰ってきたのです。当時も、家業として靴下の製造を行っていた父は「お前の給料はないが、それでもよければうちで働きなさい」と言ってくれたのです。こうして私のヤマツネにおけるキャリアがスタートしました。大体今から30年ほど前のことです。
当時のヤマツネは、靴下の製造が主なビジネスでした。特に、5本指ソックスに力を入れていました。しかし当時の5本指は、どちらかといえば水虫対策として推奨されるものであり、外で履いているのは少し笑われるような存在感でした。しかし、長くスポーツに本気で取り組んできた私にとっては、これは優れた機能をもっており、日常生活品としても十分に価値のあるものに見えていました。そこからは文字通りがむしゃらにできることを全てやりました。ときには靴下から離れたようなビジネスにも挑戦してみました。そんなタイミングでやってきたのが、グローバリゼーションの津波です。繊維産業はすでに薄利多売の時代に入っており、製造コストをいかに抑えるという点が最重要課題となり、日本のみならず世界中が極端に安い労働力を世界に開放し始めた中国へと生産拠点を次々に移していったのです。

ヤマツネにとっては死活問題でした。我々のメインは製造でしたから、注文が波が引くように消えていくのが目に見えるようでした。そこで私たちもまた、生きるか死ぬかをかけて海外生産品を仕入れるビジネスに舵を切っていくことになります。このとき以降、1年のうち150日ほどはアジアをめぐり、生産可能な工場との交渉に明け暮れる日々が続きます。難題は5本指ソックスの生産ノウハウがほとんど世界に無かったことにありました。要は、我々のオーダーに応えてくれるチャレンジングな工場や経営者になかなか出会えなかったのです。それでなくても、全世界からの需要が流れ込んでいる中で、アジアのどこにいってもオーダーは断られることばかりでもありました。
そうした中で、今なお関係が続いてる工場や経営者というのが10社程度、ベトナム、インドネシア、香港、フィリピンなどにあります。彼らは、我々のことを面白がってくれて、日本の品質に応えることが自分たちのためになると考え、一緒に汗をかいてくれた人たちでした。私たちがアジアへ進出し始めたのは大体2008年くらいですから、約15年。こうした人たちの協力があって、私たちの5本指は生産体制を整え、今は日本国内で販売する製品のほとんどを海外のパートナー企業が生産し、ヤマツネがシンガポールに作った支社を経由して日本に運ばれています。その様子はまるで、さまざまな指先から新しい活力が日本に注ぎ込まれるようであり、5本指ソックスの形状を彷彿とさせるようだと日々感じています。